153church(キリスト教会)における、イエス運動の実践。

トラウマという視点からの、赦しの考察。

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 信仰とは何か?そんな、教父たちが考察するようなことを、私は未だに考えています。一方で、信仰とは、考えて得ることや、理解することで得られるものではないということは十分承知しています。では、なぜ私は、このようなことを考えているのか。

 私は、ローマの信徒への手紙のパウロの言葉で神を知り、神に出会い、神を受け入れクリスチャンとなりました。たった一節のその御言葉によって、私に信仰が与えられたため、私は聖書の持つ力を実感しており、強く信じています。このような経験から、私は、当時の私のような、抱えている思いをどこにもぶつけることもできず、それでも必死で生き続けようとしている方々に神様の御言葉を届けたい!イエス様に出会ってほしい!という思いが与えられ、牧師になれ!という召命を受けました。

 そして、この世的な手続きを経て神学部を有する教団認可の大学へと進むと、そこはまさに人の世界であり、信仰を失いかけました。その為、ここには居れないと思い、初めに行った大学を卒業後は、本当の神の世界があるのではないかと思い、同じ教団の教団立の大学に編入学という形で入学しました。しかし、その大学はそもそも大学と言えるような状況ではなく、入学自体を無効にするように申し出てそのようになりました。これら、ここに書いた神学校のことを問題としたいのではないため、これ以上のことは明言を避けますが、このような経緯から、私は、当時所属していた教団を離れ、初めて信仰が与えられた時のような信仰を求め、様々な教派をめぐりました。

 しかし、どこに行っても私が求めるような信仰には出会えず、そこでこのサイトを立ち上げるに至ったわけです。ちなみに、私は、自由主義神学というスタイルで神学を学んできました。大学で4年間、無我夢中で学び続けたけた結果、本当に多くの知識を得ることができました。もちろん、だからといって何でもかんでも知ったなどというつもりは、当然ありません。2,000年にわたるキリスト教の歴史、ユダヤ教時代から含めれば3,500年にも及ぶその情報の蓄積を、一人の人間が理解しうるはずもありません。一方で、18世紀以降派生した自由主義神学では、私の信仰が壊れてしまうことも実感しました。人間が理解できるように聖書を理解するその行為は、知的好奇心を満足し続け、それはそれは楽しい学びでした。ですが、聖書はただの矛盾だらけの書物に成り下がり、神の言葉などとは、とても思えなくなりました。教授からは、そういった中で見つけた信仰こそ本物などと言われたかどうか、もはや覚えてすらいませんが、私にとって人間に都合のいいように聖書を読むその営みは、到底受け入れられませんでした。もちろん、私が学んだその環境が自由主義神学のすべてではないでしょう。ですから、別の自由主義神学の環境で学べば、こうはならなかったのかもしれません。しかし、事実として私の信仰は冷めきり、金の為に牧師になるようなゴールしかイメージできなくなりました。その為、私は、聖書を神の御言葉とそのまま信じる、いわゆる福音主義へ舵を切りました。

 聖書の御言葉をそのまま信じ受け入れる、こと。これは、自由主義神学を学んだ私にとっては少々違和感のある行為になっていました。しかし、私にとって自由主義神学は真理にはたどり着けない、そればかりか聖書の言う真理を人間に都合のいいように歪め信仰を躓かせるものである、という結論が出ていた為、徐々に慣れるようにしました。聖書を読んでいると、ついつい、この箇所はこういう背景だったとか、こういう学説があるとか、なかなか慣れませんでした。しかし、初めて信仰が与えられたローマの信徒への手紙を読むと、本当に身体に御言葉が入ってくることが感じられました。

 一方で、聖書の御言葉に絶対的な権威があることの弊害は忘れたわけではありません。様々なことが考えられますが、今回は、この記事の題名にした「赦す」ことについて考えています。

 聖書は赦せと言っています。イエス様も言いました(マタイによる福音書18章21~22節)し、主の祈り(我らが赦すごとく)でも当然のように語られています。そのため、福音主義的に考えれば、私たちはすべてのことを赦さなければなりません。前置きが長くなりましたが、この点が本題となります。

 トラウマという反応があります。学会による定義もありますが、端的に言えば、何かきっかけによって、過去の苦痛がよみがえる現象です。私には、トラウマになるような出来事があり、非常に高負荷な精神的衝撃、それに伴う精神的苦痛を経験しました。その傷は、今も癒えていないことを先日経験しました。話が前後しますが、私自身のトラウマによって私は神様に出会いキリスト者となりました。それから10年以上経過し、私の過去を受け入れてくれる妻が与えられ、もうトラウマなんてへっちゃらじゃん!なんて思っていたのですが、どうやらそう簡単にその傷が癒えたわけではないようです。
 初めの神学校の時、牧師になるという召命が与えられた私は、何とか失いかけている信仰を取り戻してその道を進むことはできないかと思い、もう少し学び続ければ、信仰も自由主義神学もバランスが取れるようになるのではないかと思いました。そのため、大学院で学ぶ道として、自分のトラウマについて研究できないかと教員に相談したことがありますが、その時には、自分のことは研究できないと言われ、それっきりになっていました。しかし、今こうして振り返ってみると、私はずっと、私自身の傷を癒すために神学部に行ったり、様々な教派をめぐってきたのだと最近思うのです。癒されるべきは、私自身だったのです。事実、私には、私の話を最後まで聞いてくれる人や、助けてくれる人が誰一人いませんでした。
 そして、こうして言語として自分の心理状態を改めて分析しつつ表現することで、これまでも何度もトラウマが原因だったと思えることが思い出されます。話がそれてしまいましたが、トラウマは本当に深刻な傷跡を残し続けます。それゆえ、トラウマとなった外傷体験の当事者が赦しの対象だった場合などは、聖書が言う赦しとは別のアプローチが必要ではないか、と思うのです。
 誰しもが、生きていれば様々な経験をします。しかし、トラウマを抱える人はそう多くないのかもしれません。辛い経験、苦しい経験をしていると、みんなそのくらいはしているよ!なんて言葉が聞こえてきます。しかし、本人にとってトラウマとも言うべき状態がそこにあるのであれば、一般論として言われるところの辛さ、苦しみとは別物と言わなければなりません。そうしなければ、その人はずっと独りでトラウマを抱え続けなければならず、もし、抱え続けることができなくなったらどうなるでしょうか。このようなことは、絶対に避けなければなりません。もうすでに、多くの方々が死をはじめ、自分も周りも、当然神様も望まない選択をしてきました。もう十分です。

 私は、様々な教会に行きました。様々な教派をめぐっていますので、当然の話です。それら多くの教会で、他の教会員の方々と深い関係性を持つに至った訳ではありませんが、一部の方とは込み入った話をするようになり、私自身の経験をお話したことがあります。すると、決まって衝撃を受けてもらえます(笑)稀有な経験をたくさんしていることは、自他共に認める事実です。つまり、当然のことだろうと言われそうですが、私に起こったことは、経験したことがない人は分かってもらえずに、さらに私は孤独になっていったと気づいたのです。
 孤独とは、無人島のような環境で感じるのではなく、周りに人々がいる時にこそ感じるものだという人がいます。私は、この意見に強く同意します。つまり言い換えれば、私のようなトラウマを抱える人間によっては、本来癒されるべき教会の中でこそ孤独になりうるということです。

 その結果、私のような、トラウマを抱えながらどこにも行くところがなく、誰にも相談することができない人が安心して集える教会が、この日本には必要ではないかと思うように至りました。
 しかし、多くの教会では、少なくとも、私がこれまで通ってきた教会では、この点に誰も気づいておらず、教会から離れた人がいる。私もその一人です。
 そして、多くの場合、なぜ来なくなったのかなどフォローされていない現状があるのではないでしょうか。確かに教会には様々な人が集うべきですが、こういった環境下にある人には配慮が必要ではないでしょうか。もしかしたら、そういう人たちを優先した教会が必要なのかもしれません。現実問題として、ほとんどの教会は信徒からの献金によって成り立っていますので、トラウマを抱えて生きづらさを抱えていたり、そればかりか、日常生活に支障をきたしている方々ばかりが集う教会など、現実的に存在できないのかもしれません。しかし、神がそれを望むのであれば、それは不可能ではありません。私たち人間が心配することではないでしょう。まとめると、一方的に赦せと説くのではなく、まずはそのトラウマに神様の愛を注いで乗り越える、この視点が必要ではないでしょうか。最近、こんなことを真剣に考えています。賛同いただける方がありましたら、どうか、トラウマを抱える方々の為にお祈りください。

※ 対人援助技術という学問分野があります。この学びでは、「私はあなたじゃないから、あなたの経験した辛さは分からないけど、絶対にあなたの味方だからね」と言ったら、0点です。私が教員なら、学期を通じて単位は付与しません。様々なシーンでこういった言葉が話されているのを見聞きしますが、「あなたの経験した辛さは分からない」と、言った時点で、相手は心を閉ざします。私自身学んだ側、経験者として言われた側の双方の立場を経験していますが、これは事実です。こんな言葉を使わなくても相手とは話せますので、本当にその人にかかわりたいのなら、もう少し配慮すべきです。また、それができないのなら、最後まで関わり続けることができないのなら、他のできる人にお願いして一切身を引くべきです。お互いが傷を負うだけですから。

寄稿者

153church伝道師圓谷年雄 / ツムラヤトシオ
好きな時代は教父時代、
好きな神学者はオリゲネス、エラスムス、
好きな教理は、至福直観。
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