私たちが大切にしたいこと

2024年10月20日 ¹ 聖書信仰について加筆修正

私たちが大切にしたいこと

 ようこそ、153churchへおいでくださいました。心から歓迎いたします。 
 私たちの文章を読んで、卑屈な文章だと思われる方がおられるかもしれません。事実として、こうして意識して書いていることからも、その心情は卑屈であるのかもしれません。

 私たちが大切にしたいこと、その根拠となる聖書箇所は、ルカによる福音書18章41節における「何をしてほしいのか。」に尽きます。イエスが、十字架の預言をし、弟子たちと共にエルサレムに向かう途中、エリコで物乞いをしている盲人に出会う場面です。当時の時代背景として、身体的、または精神的障がいを持つ方々は「穢(けが)れた」存在として差別の対象でした。ルカによる福音書の記者が書くように、街の中で皆と共に生活することは許されず、その共同体の外で、はずれで生きるしかありませんでした。現在のような社会保障もなく、障がいを持つ人たちは、自分たちで物乞いをして生きるしか術はなかったようです。毎日不自由な思いをしながら、自尊心を捨てて人にすがらなければ生きることができないという状況は、想像しただけで胸が締め付けられる思いです。しかし、そのようにしなければ生きることができないその人たちは、来る日も来る日も、そうして生きていました。中には、彼ら、彼女らに優しくしてくれる人もいたかもしれません。しかし一方では、差別的、侮蔑的な態度に出会っていたかもしれません。いずれにしろ、幸せに暮らすというよりも、生きるために日々生きているという状況であっただろうと思うのです。
そのように過ごしている所に、イエスが通りかかりました。そこである盲人が「これは、いったい何事ですか」(ルカ18:32)と尋ね、イエスが来たことを知りました。

 注目すべきは、その後の節にある「彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。」(ルカ18:38)であると思います。この盲人が、イエスが何者であるかを知っていたということも大切な箇所ですが、私はそれ以上に、自分は憐れだと思われる存在だということを自覚していたという点が重要だと思います。この憐れむとは、原語のギリシャ語では ελεησον(エレイソン)であり、クリスチャンの方であれば、『讃美歌21』34番の「キリエ、キリエ・エレイソン」他の賛美の際に聞いたことがあることでしょう。国語辞書では、憐れむとは「かわいそうに思う。気の毒に思う。同情する。不憫に思う。」というような意味があげられますが、この盲人は自分がそのような存在であることを自認していたのです。

 「人の振り見て我が振り直せ」ということわざが意味するように、私たちは自分自身で自分のことを理解するのは難しいようです。ですから、他者と交わる中で自分という存在を定義することになります。言うまでもなく、生まれ育っていく過程で出会う人々によって、保護者や、保育者、教師といった大人達、また、同世代の人々から自分という人間が定義され、その中で自己が確立されていきます。恵まれた環境で生まれ育ち、その生を肯定されて生きるならば、その人は少々自信家となってしまうかもしれませんが、健全な自己を手に入れるでしょう。しかし、その生を否定されて育つならば、その人はどのようになるでしょうか?ここで出てくる盲人は、まさにそのように生きてきたのです。否定され、否定され、否定されて生きてきたのです。
 障がいがあったとしても、できることはたくさんあります。パラリンピックに出てくる選手は、私よりも身体能力が高い人が大勢います。私は以前、知的障がいを持つ方々と農業をしていたことがありますが、彼、彼女は、私には到底持ちえないほどの、とてもとてもやさしい心を持っていました。しかし多くの場合は、できる部分を肯定するのではなく、できない部分ばかりを指摘され、その命を否定され、否定され、否定されて、自分は価値がないと思わされて社会の外に排除されて生きなければならないような状況にさらされます。人は、自分から卑屈になることなどありません。これまで生きてきた環境の中で、卑屈になるのです。

 このような状況に置かれていたこの盲人の前に、幸いにもイエスが通りかかりました。そして、彼は言いました。「主よ、目が見えるようになりたのです」(ルカ18:41)と。この後の展開を、ルカ福音書の記者は、この盲人の目が見えるようになったと結びます。この箇所は「奇跡物語」と呼ばれ、聖書を信じないという人々の攻撃対象の一つとなっています。私自身の見解はどうなのか?と聞かれれば、現代医学をもっても説明することはできず、まして2000年前の出来事を証明する術は持っていないと答えざるをえません。ですが、聖書記者であるルカがそう書いており、私は、その聖書による信仰を生きています¹。また、彼は、否定され続けてきた人生から解き放たれたという状況が記されており、その開放という事実こそが重要であると言いたいのです。目の前にいる一人にしっかりと向き合って、「こちら側が、何かしてやろう。」という態度ではなく、「何をしてほしいのか。」と、その盲人の意思を尊重し、人間として扱われてこなかった彼を人間として見つめなおし、その過程を経ることで盲人の人格が再形成されていったのです。彼の心の暗闇に、光が差したのです。

 あなたの弱い部分を自覚し、そして自認することから、さらに、私はこうして欲しいです!と、言えるようになった時にこそ、あなたは解放されるのです。いつも、イエスはそばにいてくださいます。そして、「何をしてほしいのか。」と聞いてくださっています。もう、傷を隠す必要はありません。歯を食いしばって、奥歯がボロボロになるほどに食いしばって生きる必要はありません。今こそ、その傷に向き合って解放されたいと宣言してください。ルカ18章の盲人がそうであったように、自分と向き合って解放を望む人に、イエスは必ずお答えになります。そして私たち153churchは、あなたが自分自身に向き合えるように、傷ついた自分を受け入れることができるように、共に歩みたいと考えています。それが、153churchにおける、イエス運動の実践です。

あなたに、神の愛と、イエスの恵み、聖霊の豊かな導きがありますように、アーメン。

メッセージは、こちらからお願いいたします。

153church
Toshio C Tsumuraya