153church(キリスト教会)における、イエス運動の実践。

4月11日 神はあえて私たちを試練や孤独という「暗闇」へ連れて行き、

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「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。」マタイによる福音書10:27


わたしたちの主はたえずわたしたちを暗い所にたずさえていってわたしたちに語ろうとしていたもう。その暗さは死別のカーテンを施した暗い蔭の家庭であるかも知れない。またそれは淋しさと孤立の暗さで、さまざまの弱点が光といのちの刺戟からわたしたちを締め出し、わたしたちをおしつぶす不満の暗黒であるかも知れない。
そして彼は大いなる驚くべき、永遠のしかも無限の秘義をすら語りたもう。神はわたしたちに、地上の栄華によってくらまされた目をもつて天の星座を見ることを得させ、しばしば地上のかん高い、騒々しい叫びに消される神の静かなみ声をききとることを得させて下さる。
しかしこのような啓示は常にわたしたちがこれに共鳴する責任を含むのであって、これを明るきに述べ、家の上で宣布する責任がある。
それはわたしたちがいつも暗い所を行きめぐり、あるいは密室に止まることを意味しない。やがてわたしたちは生活の多忙と、暴風の中にわたしたちの場所を占めなければならない。そしてその瞬間が来た時、わたしたちは自ら学んだことを語りかつ宣布する。
このことは苦難に新しい意味をもたせる。苦難には最も悲しい要素があって、それはしばしば意味のないもののように見える。「自分は何という役に立たない者であろう」「自分は人を善くするために、はたして何をしたであろうか」、「わたしの魂の貴いナルドの油を何のためにこんなに空費したのであろうか」と。
このようなことは苦しむ者の絶望の悲しみであるが、神はすべてこれらのことの中に目的を持ちたもう。彼はその子どもを交わりの高みに引上げたもう。これは神が顔と顔とを合わせて彼に語り、山のふもとにおいて、その友に神のメッセージを告げるためである。モーセは山の上で四十日を空費したのか、エリヤはホレブで空しく時を過したか、又パウロはアラビヤで空しく三年を費したか。
信仰の生涯には近道はない。これは清い勝利の生涯のきわめて重要な条件である。わたしたちは淋しい黙想の時と神と交わる時を持たねばならない。すなわちわたしたちの魂は交わりの山々を持つべきであり、大なる岩蔭に静かな休息の谷を通過すべきである。暗黒が人生の繁忙を静め、目に見えるものをおおうた時、星月夜の下に無限であってしかも永遠の光景が聞かれることは、わたしたちの肉体が食物を要するようにわたしたちの霊には欠くべからざるものである。
このようにして神のご臨在の意識のみが魂の固定した所得となり、詩聖と共に「おお神よ、汝は近くいましたもう」と常にくり返すことができる。F・B・マイヤー

「ある人々の心は、月見草のように生涯の夕闇にうるわしく咲き出るのである。」

現代語訳

「わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。」マタイによる福音書 10:27


私たちの主は、絶えず私たちを「暗い所」へと連れて行き、そこで語りかけようとなさいます。その暗闇とは、死別のカーテンが引かれた悲しみの家庭かもしれません。あるいは、孤独や孤立の闇、あるいは様々な弱さのために光や命の刺激から締め出され、不満に押しつぶされそうになっている暗黒かもしれません。

しかし主は、そこでこそ、偉大で驚くべき、永遠かつ無限の「秘義(奥義)」を語ってくださるのです。神様は、地上の栄華によって目がくらんでしまった私たちに、あえて暗闇を通らせることで天の星座を見せてくださいます。そして、地上のかん高く騒々しい叫びに消されてしまいがちな、神様の静かな御声(みこえ)を聴き取らせてくださるのです。

ただし、このような啓示を受けることには、常に「共鳴(応答)する責任」が伴います。私たちは、暗闇の中で主から受け取ったメッセージを、明るい場所で述べ伝え、「家の上(屋上)」で堂々と宣言する責任があるのです。

それは、私たちが一生ずっと暗い場所に留まり続けたり、密室に閉じこもっていたりすることを意味するのではありません。やがて私たちは、多忙な生活や人生の暴風が吹き荒れる場所へと、再び戻っていかなければなりません。そして、その瞬間が来たとき、私たちは自らが「暗闇」の中で学んだことを、力強く語り、宣布するのです。

このことは、苦難に新しい意味をもたらします。苦難には最も悲しい要素があり、それはしばしば「自分は何という役に立たない者だろう」「人を良くするために一体何ができたというのか」「私の魂の貴いナルドの油を、なぜこれほどまでに無駄にしてしまったのか」という、無意味感に襲われる絶望の悲しみです。

しかし、神様はこれらすべてのことの中に、確かな目的を持っておられます。主は、ご自分の子供を「神との交わり」という高い境地へと引き上げようとしておられるのです。それは、神様が顔と顔を合わせてその人に語りかけ、やがてその人が山のふもとに降りたとき、待っている友に神様のメッセージを告げさせるためなのです。 モーセは山の上での四十日間を空費したのでしょうか。エリヤはホレブの山で虚しく時を過ごしたのでしょうか。あるいは、パウロはアラビアの砂漠で無意味に三年間を費やしたのでしょうか。

信仰の生涯には「近道」はありません。これこそが、聖なる勝利の生涯を送るための極めて重要な条件なのです。私たちは、一人静かに黙想し、神様と深く交わる時間を持たなければなりません。すなわち、私たちの魂は神様と出会う「交わりの山々」を持つべきであり、大いなる岩の陰にある「静かな休息の谷」を通過しなければならないのです。 暗闇が人生の喧騒を静め、目に見えるものを覆い隠した時、星月夜の下で無限かつ永遠の光景に耳を澄ませることは、私たちの肉体が食物を必要とするのと同じように、霊魂にとって欠かすことのできない滋養となります。

このようにして、「神様が共におられる」という意識だけが魂の揺るぎない財産となり、詩人(詩聖)と共に「おお神よ、あなたは近くにおられます」と絶えず繰り返すことができるようになるのです。F・B・マイヤー


「ある人々の心は、月見草のように、人生の夕闇の中にこそ麗しく咲き出るのである。」

神はあえて私たちを試練や孤独という「暗闇」へ連れて行き、地上の騒音に消されない深い真理を語られるが、そこで得た霊的な宝は、再び日常の「明るみ」に戻った時に他者へと宣言し、証しすべき尊い使命のための蓄えである。

寄稿者

153church伝道師/求道者圓谷 年雄 / ツムラヤトシオ
好きな時代は教父時代、
好きな神学者はオリゲネス、エラスムス、
好きな教理は、至福直観。

ただ祈り、ただ交わるだけの信仰ではなく、イエスの弟子としての自覚をもって生きる道を歩んでいる。
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